「ボンジュール、ムッシュー」
パリ国際大学都市にあるモナコ館では朝の八時頃になると、黒い肌をして豊満な家政婦のおばさんが私の部屋の掃除にやってくる。
「ボンジュール、マダム」
特に愛想が良いわけではないが、かといって陰気な様子はない。おおかたアフリカにあるどこか旧仏領の国の人だろうと思って訊ねた。
「どこの国から来たのですか、セネガルか中央アフリカでしょう?」
「ハイチからですよ」
彼女は誇らしげに答えた。
「へー、ハイチというと、カリブ海のドミニカの隣にある島のですか」
彼女の家族は、治安が悪く政治の安定しない貧しいハイチを去って、パリに移住してきたのだ。
モナコ館の前にある通りを隔てて、モンスリー公園がある。パリ13区にある丘状の起伏を生かしたイギリス風の公園で、RER(高速郊外地下鉄線)が、この丘状の公園の中を通りぬけ、この路線のシテ・ウニヴェルシテの駅が公園の一部になっている。フランスのシンメトリックな庭園で見られない落ち着きがある。築山から芝生の下にある池の風景が眺められ、いろいろな種類の野鴨と、一羽の白鳥が静かに池を泳ぎ、餌を漁っている。
私は夏の休暇を過ごす傍らに、ソルボンヌ大学の夏期講習を受けるためここの学生寮モナコ館に宿泊した。一ヶ月のパリ滞在ともなると、ホテル暮らしは高くつくので、倹約するために学生並みのこの寮に一室を確保した。そして、ふだんは学生食堂の安い食事で済ますことにした。
朝夕、この公園を散歩するのが日課になった。
朝、八時を過ぎると、開園まもない公園には半袖と短パンで園内をジョッギングしながら駆ける男女の人たちが何人かいる。今年の夏のパリは、七月だというのに肌寒く、時雨日和の日が続く。職場に急ぐ通勤の人たちが、近道をして園内をいそがしげに通り抜けていく。
野鴨たちは早朝の丘へ上がって、のそのそ歩きながら芝草の新芽をついばんでいる。庭師たちが、園内の花壇を工夫して、市民が四季の花を楽しめるように手入れに忙しそうに働いている。
のんびりと散歩をしながら適当なベンチに腰掛けて読書をし、一時間ほどの散歩を終えて宿舎に戻る。八畳くらいのゆったりとした空間のある部屋は清掃が終わり、ごみ箱も片付いている。机と一人用のベッド、大きな衣装棚に冷蔵庫もある。鏡付きの洗面台があるが、トイレとシャワーは共用だった。
開き窓からは、向かいの宿舎の様子が見える。
この国際大学都市には、世界中の国々が寄付した数十軒の学生用の館がある。創設に寄与した国に因んだ名前が付けられている。モナコ館はその一つだ。日本館は、パリでの豪遊で名を馳せたバロン薩摩氏の寄付によるものだという。広大な敷地には世界中からこの夏季の観光シーズンを利用して、学生達がパリ見物とフランス語の学習にやってきてここを宿舎にする。このなかでカンボジア館だけは、祖国の長い混乱のため閉鎖されていたため、荒れ果てた館は修理中で立ち入り禁止になっている。
モナコ館には東京にある日仏協会の主催するフランス語の語学研修のグループが宿泊していた。若い日本人の女性が多く、憧れのパリでフランス語を勉強しながパリ見物が出来るため、夏休みのこの期間中は希望者が多い。朝早く、学生達が勇んで学校へ出かけて行く。
早朝の散歩を終えると、午前十時から始まる授業に出かける。メトロに乗ってリュクサンブール公園の駅まで行く。パンテオンの白亜の建物を右手に入ったエストラパード通りに、講義が行われるコレージ・ド・フランスの建物がある。
ソルボンヌのフランス文明講座は、七、八月の夏期休暇を利用して毎年開かれる。聴講生が自由時間を活用できるように配慮し、講義のスケジュールがあまり過密にならないように週三日しかも一日三時間の講義だけだ。出欠は取らないので欠席は随意できるため、週末はフランスの地方を旅行することもできる。
講義の一時間目は、フランス現代文学と作家論があり、その後の二時間は現代演劇、音楽の他、フランスの教育、文化などの社会問題についてその分野の専門の教授が講義する。
二百人ほどの聴講生が詰めかけて、階段教室は満杯になる。ヨーロッパ各国の学生が大半を占めるが、日本人や韓国・中国からのアジア系の学生が一割程度はいるだろうか。フランス語の語学の学習は日本でも同じだが、ここの聴講生の八割ほどが若い女性で占められている。フランス語専攻の学生や教師にとって、このソルボンヌの文明講座は語学力を活用して聴講できる憧憬の講座である。
講義の合間に、私の左に坐った金髪の女性が後の席の女性にスペイン語で話している。彼女たちの話が一段諾したところで、私がスペイン語で話し掛けた。
「ブエノス・ディアス・セニュリータ(今日は、お嬢さん)。スペインはどこからいらっしゃいましたか。私は日本から休暇を利用してきていますが」
不意に隣の男からスペイン語で話し掛けられて彼女は少し驚いた様子だ。
すぐに笑顔で答えた。
「グラナダです。スペインへはいらしたことがありますか」
「ええ、二度。グラナダへも一度行ったことがあります。素晴らしい所せすね。スペインへは、また是非行きたいと思っているところです。でも、夏のスペインはものすごく熱いから、つい行きそびれてしまいますね。できたら、本当はこの語学研修も、スペイン語でもよかったのですけど」
「スペインは確かに夏は熱いですが、でも、それも所によります。山地の涼しい場所を選べば快適ですよ」
「そうでしょうね、バスク地方とかで、山のあるところでしたら良いでしょう。次回はスペインにしたいと思っています。ところで、貴方はパリにはいつまで滞在するのですか」
「七月一杯でこの講座を切り上げて、帰ります。で、あなたはこの後どちらへ」
教師が演壇に上がり、午後の講義が始まる。
「私も、今月末にパリを切り上げて、ドイツに寄ってから、帰国する予定です。では、講義が始まるから、あとでカフェへ行ってゆっくり話しましょうか」
「コン・ムーチョ・グスト(そうしましょう)」
熟練した講師が、外国人の学生に分かりやすく話し、講義は聞き取り易い。専門講座をフランス語で理解するためには、それ相応の語学力と教養が必要だ。メモを取る様子を見ていると、ほぼ完璧に理解しきれいにノートとっている者や、あまり分かっていない聴講生などまちまちのようだ。
講義の後は、それぞれ気の合った連中と近くの、カルチェ・ラタンへ繰り出す。
私は、セルビアから来た彼女の友人と三人で、ソルボンヌ教会の前にある広場のカフェで、ビールを飲みながら、一時間ほど寛いで話合った。
彼女たちと別れると、フランス文学の案内書を求めて本屋を歩き回った。今日の最初にあるフランス文学の講義が、ベルナノスという聞いたことも無い作家のため、講義の内容が殆ど把握できなかった。
サン・ミッシェル通りを通って、シテを越え、コンコルド広場へ向うリボリ通りに、本屋があった。ウインドウにフランス文学の書籍を並べている。比較的大きな本屋で、奥には英語の専門書のコーナーがある。入口の右手の棚に、二十世紀のフランス文学辞典Dictionnaire
des Lettres Francaises, Le XXe siecleを見つけた。つい最近の出版で、今回の講義であまり馴染みの無い、デュラス、ジオルノ、モディアーノなどの作家はすべて網羅している。
本屋でつい長居したせいか、それに先ほど飲んだビールの所為でトイレへ行きたいと思った。パリで一番不自由するのは、路上のトイレがなかなか見つからないのと、有料であるため、ついつい我慢してしまう。ようやく見つけた所では、小銭を用意して払わねばならない。
カルチエラタンを通りメトロのクルニ・ラ・ソルボンヌ駅の地下に降りた。運よく公衆トイレがある。入口にアジア系の中年の女性が受付の窓越しに坐っている。やや褐色を帯びた平たい顔を見て、おや、カンボジア人ではないかなと思った。落ち着いた上品な感じの婦人は、きっと良家の出自にちがいない。
「ボンジュール・マダム」
「ボンジュール・ムッシュウー」
彼女は、事務的に無表情に答えた。目線が合った彼女に訊ねた。
「貴方は、ひょっとしてカンボジアの方ではありませんか」
「そうです、カンボジア人ですが」
びっくりした表情をして彼女が、答えた。
「ナウ・プロティ・バラン・サバイテ(フランスでの生活は幸せですか)」
私がカンボジア語で訊ねた。
「いいえ、とんでもないです。日本人の方ですか。でも、どうしてカンボジア語をご存知ですか」
彼女も、カンボジア語で答えた。
「以前カンボジアに住んでいましたから」
「私は、ご覧のようにこのような仕事ですし、主人はオルセイ美術館の看守で、どうにか生活を支えている状態です。できれば、祖国に帰りたいと思いますが、事情が許しません。せめて、子供が一人前になるまで、あと十年はフランスで我慢しなければならないでしょう」
小用を済ませると、トイレを丁寧に洗っている彼女に声をかけた。
「ソムリエサン・ロックスレイ・ソクサバイ(さようなら、奥さん、お元気で)」
2.
モンスリー公園では、夕方になると決まってパン屑を持ってきてハトに投げてやるやる青年がいる。レタスの切り屑をビニール袋にいっぱいに詰めて、野鴨に与える初老の女性は、孫を二人従えてやってくる。三人が一緒になって餌を投げると、首だけ黒い白鳥と、その子分と思われる鴨の一群が、待っていたように餌をもらう。鳥達はゆうゆと近づいてきて、好物の野菜の切れっぱしを食べる。この人々の日課が、動物達の生活と平和を守り、公園の長閑な風景をいつも変わらず見せてくれる。
公園の散歩を切り上げて、まだ明るい八時前、夕方の時間をつぶすため、ジュルダン通りの裏にある石畳の道を、オルレアン門の方角へ向かってみた。右手にある小高い丘のような土塁の一画が煉瓦の塀で囲まれている。刑務所かもしれないと少し不安な気持ちになるが、内側を見渡すガラス張りの観覧所が四囲に建っている所をみると、浄水所だ。この近辺は閑静なアパートの住宅街で、所々に二つ星のホテルがある。思い出したように食料品店や、レストランがぽつんとある。
パリにきてからは、珍しかったフランス・パンやハム、チーズが美味くしきりに食べた。しかし安くてボリュームのある学食にもそろそろ飽きてきた。気晴らしに入ろうかなとも思ったインドレストランを覗くと、暗い店内には客もいないし店員の気配さえない。ここを通り過ぎてありふれた小さなカフェの横にある十字路の角を横切ると、向かい側に中華の惣菜を並べたこじんまりした
"東華快餐店"の看板が見える。
食傷気味のこんな時には、いつも食べなれた中華料理が一番だ。通りすがりに眺め、好きな惣菜を気軽に好きなだけ取れる店であることを確かめる。ウインドウには中華製の即席ラーメンと醤油が並べてあり、店内のショウケースの中には、美味そうな中華の惣菜をステンレス製の盆に入れて、二列にびっしりと並べてある。チャーハン、やきそば、春巻き、牛肉と野菜の煮付け、その他中華料理の惣菜が十数件ある。入り口の左には四人掛けの簡単なテーブルが六台置かれており、奥のテーブルで学生風の東洋人の若い男が二人、簡単な食事をとっていた。
にこやかに話し掛けてきた女店員は、愛想の良いかわいい女性だ。中国人にしてはやや褐色な血が混じっており、さてどこの人だろうと思いながら、軽い夕食を済ますため、牛肉の野菜炒めにカレーチャーハンを指差して注文した。
「飲み物は何になさいますか」彼女がフランス語で訊ねた。
「ビールを下さい」
「中国製、それともハイネッケン?」
中華料理のことだし、中国製のビールに限る。
「ニイ、ヤオ・メイヤオ・青島碑酒(チンタオ・ビールはありますか)」私は中国語で訊ねてみた。
彼女は、取り出そうとした缶入りのタイガー・ビールを冷蔵庫に戻すと、見慣れた青い小瓶の青島ビールを取り出した。彼女が料理を皿に盛り、秤で重量を確認し、レンジで暖めている間に、私は入口に近いテーブルに行って坐る。後ろの二人の青年が小声で日本語を話していたが、入ってきた日本人らしい客を意識してか、言葉が少なくなる。二人は間もなく慌ただしく勘定を済まして出ていった。
彼女が暖めた料理を客のテーブルに運んできた。
「お待ちどうさま。中国人ですか」
彼女が北京語で尋ねた。
「いえ、日本人。休暇でパリにきているのです。ここは、中華料理店なんだね?」
確認するように訊ねた。
「そう、中国・カンボジア風の…。いえ中国・ベトナム風の料理が専門です」
彼女が、言いかけた言葉を訂正した。
「今、カンボジアと言われましけど、もしかしてカンボジア語を話しますか」
私がカンボジア語で訊ねた。彼女が中国系カンボジア人ならば、褐色の丸顔は納得がゆく。それならばカンボジア難民ではないかと思った。
彼女は驚いて少し戸惑った様子をみせたが、思い出すようにして笑顔を取り戻した。
そんな様子を眺めて、私は知性的で賢そうな人だなと思った。
「カンボジア語を話すのですね。珍しいこと。もう、随分話していないので殆ど忘れかけていました」
少しつっかかったカンボジア語で考えながら答えた。
「ずーと以前、カンボジアに住んでいたことがありますからね。あなたが生まれる前でしょう」
「そんなに昔のことなのに、よく言葉を覚えていらっしゃいますね」
大柄な北欧の女性が二人店に入ってきた。
彼女が愛想良く、フランス語で応対した。二人は常連なのか慣れているらしく、惣菜を選ぶと、レンジで暖めてもらい、金を払って出ていった。
彼女が食品棚の横にある私のテーブルに椅子を寄せ、テーブルの側に坐った。
「いつから、パリに住んでいるのですか」私が訊ねた。
「小さな子供の時からです。**年にフランスに来たので、もうかれこれ十六年になります」
「ひょっとすると、貴方はカンボジア難民ではありませんか」
「そうです。父母がカンボジアを逃れてフランスへ来たのですが、私は小さい時だったので、カンボジアの事は殆ど覚えていません。ただ、時々父母から聞いたり、家に尋ねてくる人達からいろいろ聞いて知っているだけです。カンボジア語も以前には少しだけ覚えたのですが、最近では殆ど話す機会がないので忘れてしまいました」
「私がカンボジアに居たのは、まだシハヌーク殿下が国家元首でおられた頃でした。平和で良い所でした。もっとも当時は、ベトナム戦争の真っ最中でしたので、隣のベトナムは大変だったけれど」
彼女は、クメール王朝の血をひく現人神として親しまれていた殿下の名前さえ、うろ覚えのようだった。この若い世代はそんな故国の昔の様子は想像することすらできないようだ。
「フランスの生活は如何ですか」
私が尋ねた。
「ええ、フランスではこのようにちゃんと仕事もあり、生活がきますから、幸せです」
彼女は、奥で料理を作っている主人に福建語で声をかけた。
「ちょっとあなた、日本人のお客さんがカンボジア語を話すわよ」
奥で調理をしている亭主が何かつぶやいた。しばらくするとが、角張った平顔の男が、ナプキンで腕を拭きながら、ぬっと姿を見せた。中国の職人によくある顔だ。
「ソクサバイ(こんにちは)」
私がカンボジア語で話し掛けた。
「…ソクサバイ」
男が無表情で答えた。
「あなたも確かカンボジアには**年までいましたよね」
若い奥さんがフランス語に直して言った。
「そう、197*年にタイ国に陸路で逃げて行った。難民キャンプに三年いた。そのあとフランスにきた」
男が福建語つぶやくと、奥さんがフランス語で言った。
「それではキャンプのことは覚えていますか」
「当然でしょ。ぼくは五才でしたからね。忘れるものですか。酷い生活でした。タイの**キャンプをご存知でしょう?」
カンボジアなまりのあるフランス語で、彼は吐き出すように言った。昨年結婚した彼は二十八才。
「では、夕方の料理作りが忙しいので。失礼します」と奥の調理場へ引き返した。
「197*年というと、カンボジアではポルポト政権のすぐ前の頃ですね」
話が難しくなってきたので知っているカンボジア語の単語が追いつかない。私はフランス語に切り替えた。
「そうです、大虐殺が始まりる前にプノンペンの人たちが一斉に国外へ逃亡を始めました。私はまだ幼児だったので、両親といっしょにフランスの軍用機で隣のタイ国へ逃げました。カナダ政府の飛行機で脱出した人たちもいました」
彼女は、なまりのないパリジェンヌのきれいなフランス語で話した。
「そうすると、カンボジアのことはほとんど覚えていないでしょうね」
「私は幼かったので記憶がありません。学校もフランスに来てから、小学校から高校まで卒業しました。大学入学資格のバカロレアも取りました。その後、二年かけて経理の資格を取りました」
「バカロレアを通っておれば、好きな大学へも行けたわけでしょ?」
「ええ、大学へは行こうと思えば行けました。でも大学を卒業しても、今のフランスでは、失業率が高いから、仕事に就けそうにないのです。ですから、実務的な経理の勉強をしたのです。結婚して、もうすぐ一年経ちますから、この仕事を含めて実務経験は五年になります」
彼女は、面接試験を受けているように、はきはきと答えた。
「故郷のカンボジアへは帰りたいと思わないですか?」
「旅行で行くのでしたら良いでしょう。でも、住みたいとは思いません、生活ができませんからね。フランスでは仕事もありますから、安心して暮らせます」
休日のモンスリー公園は、十時過ぎると、小さな子供連れの家族や、さまざまな肌色の取り合わせのカップルが、憩いにやってくる。薄日の垣間見えるところで、太陽の光に肌を露して寝そべる中年の女性、芝生の上で身体を絡ませてお互いに顔をくっつけ合ったままいつませもじっとしている若い男女、そんな光景にお構いなく犬を連れて散歩している人。ベンチで静かに読書にふける老人。日曜日の午後は夕方まで、こんな光景が繰り広げられる。
東華快餐店を覗くと、旦那が一人ショウケースの後ろで控えている。
「ボンジュール・ムッシュー」
店主が元気な声が呼びかけた。厳つい顔に笑みを浮かべている。
「コモン・サヴァ?」
奥のテーブルでは、三十前の大柄の東洋系の女性が、一人白飯とおかずの皿を抱え込むようにして食べている。
「トレビアン・メルシ。エ・ヴ?(ええ、おお蔭様で、貴方は如何ですか)」
「奥さんは、今日はどうしたのですか、元気ですか?」
「彼女は、本業の経理事務の仕事で出かけています。今日はここへはきません」
今日は旦那が一人で店番と、調理の二役をこなしている。店番となると、裏方の調理番のようにぶっきらぼうにしているわけにはいかない。この前よりは愛想がよく、気を遣ってお茶を出してくれる。
「私の両親は台湾人でして、家では福建語を話しています。カンボジア語を話す事はありません」
カンボジア在住の華僑ににしてみれば、東南アジアであっても、フランスであっても、平和に仕事ができる国であればどこでも良いのだろう。
奥さんは中国系のカンボジア人で、両親はカンボジアで生活していたが、彼女にして見れば、幼い時に離れた故郷の記憶さえない。小学校から高校、専門学校までパリで終えた。両親の故国は、彼女にとっては話に聞くだけの瞼の故郷なのだ。
若い二人は、難民として故国を棄てたが、幸運にもこのパリで自分達の第二の故郷を見つけ、現実的な生活を着実に歩んでいる。
"誰でも第二の故郷をフランスに見出す"、と誰かが言った気障な言葉が、皮肉にもこのカンボジア難民にはぴったりかもしれない。
ソルボンヌの講義は七月で終わる。荷物をザックに纏めて、出発の準備を終え、ふらりとまた東華快餐店を覗いた。客の居ない店では、若い女がぼんやりと通りを眺めていた。視線が合うと彼女は元気を取り戻したように、かわいい笑顔を見せた。
「いらっしゃいませ。あら、もう日本へお帰りですか」
「ドイツへ発ちます。しばらく放浪して、それから帰国する予定です」
「ドイツですか。いいわね。私も、リセーの学生だった頃に、十日ほどホームステーで行ったことがありますよ。ドイツ美しい国ですよね」
「次にお会いする頃には、この店も大きくなって、貴方も子供が二人くらいいるでしょうね。では、お元気でね」
私は、店の主人にも声をかけると、ザックを担ぎ、ポート・ド・オルレアンの駅から地下鉄に乗り、パリ北駅へ向った。
| この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。 |
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