「アラビアのロレンス」に会ったのは、シリアからヨルダンのぺトラを訪ねて旅をした時のことだった。
広大なシリア砂漠の彼方に、百頭近いラクダの一隊が、ゆっくりと時間を超越したように歩いていた。このキャラバンを離れた一頭のラクダか砂煙を上げてこちらへ走ってくる。鞍の上には純白のアラブの花婿の衣装をまとった男が乗っている。ラクダは国道沿いの私の近くへやってくると、若い男がひらりと飛び降りた。
「アハランワ・サハラン、シリア砂漠へようこそ!」
噂に聞いていたアラビアのロレンスだ。
私は、技術協力でシリアにいた。そして人類の発祥の地、旧約聖書以来の文明を築いた子孫が現存する、このアラビアの乾いた文明に魅せられた。しかし、アラブ人の気質は、文明の後進地からやってきた私には良く分からない。
ロレンスはアラブ人の操縦法を、要領良く教えてくれた。
「いつもユーモアのセンスを決して忘れないことだね。さりげない皮肉が最も効果がある。また一般論を言うよりも、むしろ相手の一身上のことで当てこすりながら機転を利かせて反応することだね。きっと人々に対する影響力を増すことができるよ。乱暴な言葉を使うのは避けたほうが良い。それよりも相手を咎める笑みを浮かべていた方が、よほど効果的で、この効果も長続きするね」
ロレンスが体験した貴重な生活の知恵であろう。
話が終わるとロレンスは、ひらりとラクダに飛び乗り、キャラバンの方へ去っていった。
砂漠の蜃気楼が消えるように、ラクダの群れも見えなくなった。
国道沿いの沿線に目を転じると、巡礼鉄道の破壊された残骸が、未だにそのまま放置されていた。イギリス人将校T.E.ロレンスが第一次世界大戦中に、ベドウィン軍と一緒にダイナマイトで破壊したものだ。当時アラビア半島を支配していたトルコ軍がドイツと同盟を結んだため、半島でのトルコ軍を壊滅させるのが連合国側の狙いであった。
アラビアのロレンスに興味を抱いた私は、シリアの北の古都に住む日本の友人を訪ねた。15年前、技術協力でシリアにやってきた彼はアラビアに魅せられて、この地に住みついてしまった。日本人の妻と別れ、現地のコーヒー占い師のアラビア美人と結婚した。
私はロレンスが宿泊したという古い佇まいのバロン・ホテルに泊まった。昔のままの古びた家具とともに、がっちりした木製のベッドがあった。きっとロレンスもこのベットに寝たに違いないと思った。
ロレンスはオックスフォード大学の学生だった頃、シリアを徒歩旅行しアラビアの城を巡り歩いた。当時、ヨーロッパの築城は、中世アラビアの城に影響されたと言うのが通説であった。彼はこれを反証する論文「十字軍城砦」を書き、大学から最優等学位を受けた。シリアの中部の小高い丘の上に聳える中世の名城「クラック・デ・シュバリエ」を訪れた彼が、この理論に確信を抱いたのだろう。
シリアの第三の首都ホムスを旅した時には、私は中世の十字軍を忍ばせるこの見事な城の全景を遠くから眺め、城内を巡った。ロレンスがその美しさを絶賛したこの中世の白眉の城は、アラビアの英雄サラディンでさえ攻略できなかったという。城壁から眼下に広がる広大で豊かな緑の農地を展望し、ロレンスを、そして十字軍の昔を偲んだ。
一九一四年、シナイ半島の考古学調査を行ったロレンスは、大戦が始まると陸軍省のカイロにある情報部勤務を経て、アラブの叛乱に乗じてベドウィンを結集することになり、トルコ軍の拠点アカバを攻略した。
アラブ人部族を結集するのは至難の業であり、500年以上の間、カリフやスルタンでさへできなかったという。ロレンスは、巧みなアラビア語をしかも方言まで使いこなし、アラビアの花婿が着る純白の衣装を纏い、砂漠の舟と喩えられるラクダを自由に乗りこなし、アラビア人を統率する術を心得ていた。
当時のイギリスはフセイン・マクマホン書簡により、トルコ軍に戦勝した暁には、アラビア人による独立国家を保障すると約束した。そこでフセインはアラブ人軍隊を結集し「アラブの叛乱」に起ち上がった。
アラブの英雄ロレンスは、ベドウィンの軍隊を指揮し、生死を共にしながらアラブの叛乱を率いてアラビアの独立を夢見た。母国イギリスの主張とは別に、アラブの立場に立ったファイサルによるシリア独立国の樹立を願った。
この間イギリスは同盟国フランスとの協力が不可欠であったため、植民地主義国のマキアベリスト政治家達は1916年、先のフセイン・マクマホン書簡とは相反したサイクス・ピコ協定を締結し、大戦終了後におけるアラビア半島の利権の分割を取り決めていた。フランスはシリアとレバノンの支配権を、イギリスはパレスチナ、トランスヨルダン、メソポタミアを取得し、地下に眠る巨大な石油資源を取得するつもりだった。
ロレンスは連合国側の相矛盾した密約に悩んが、アラブの民族運動を指揮し、アラブによるダマスカス制圧するとともに、いち早いアラブ政権樹立によりアラブによるシリアの制圧権を確立できると信じた。そして1918年10月、見事にアラビア軍によるダマスカス入城を果たし、英軍アレンビー将軍が入城する前に、アラブ人政府を樹立した。
私はダマスカスのオマヤド・モスクの横にあるサラディンの墓を訪ねた。墓守の老人が慇懃に迎えてくれた。そして彼とともに、サラディンを偲んだ。
ダマスカスに入城したロレンスは、真っ先にこのアラブの英雄サラディンの墓に参ったと言う。
「サラディンよ、今再びアラブ人の手によって、このアラビア半島の統一が成し遂げられました」ロレンスはかって、アラビアを統一したこの英雄に、語らいかけたに違いないと、私たちは思いを巡らせた。
アラビアを離れイギリスに戻ると、ロレンスは功績による国王直々の殊勲賞の授与を辞退し、新聞による文筆活動でファイサル支援の活動展開した。
イギリスのアラブに対する支援を約束していた彼は、結果的に政治的な駆け引きにだけ利用された。アラブの叛乱を指揮したたためアラブを裏切ることになり、この欺瞞と自責の念に苦しんだ。そして、その後は、あれほど愛したこのアラビアの地には、二度と戻らなかった。
私は誇り高いアラブ人を操る術を、ロレンスの名著「知恵の七柱」と「アラビア人の操縦法27か条」に学んだ。
彼のいくつかの知恵の言葉は、私がシリアの人々と仲良く仕事を一緒にする上で、大いに役立った。
| この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。 |
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