シリアのダマスカスでの生活も一段諾した頃、友人と一緒にヨルダンとぺトラを訪ねて旅をした。広大なシリア砂漠の彼方に、数十頭のラクダの一隊が、ゆっくりと時間を超越したように歩いていた。
国道沿いの沿線に目を転じると、巡礼鉄道の破壊された残骸が、未だにそのまま放置されているのが見えた。
イギリス人将校 T.E.ロレンスが第一次世界大戦中に、ベドウィン軍と一緒にダイナマイトで破壊したものだ。当時アラビア半島を支配していたトルコ軍がドイツと同盟を結んだため、半島でのトルコ軍を壊滅させるのが連合国側の狙いであった。
デビッド・リー監督による映画「アラビアのロレンス」は、歴史上の冒険映画として、最高傑作であり、大戦中のロレンスの活躍とアラビアを知る上で参考になる。
アラビアのロレンスに興味を抱いた私は、シリアの北の古都に住む日本の友人を訪ね、ロレンスが宿泊したという古い佇まいのバロン・ホテルにも泊まってみた。
オックスフォード大学の学生だった頃、シリアを徒歩旅行したロレンスが、アラビアの城を訪れ、中世アラビアの築城がヨーロッパの城に影響されたと言う通説に反する論文「十字軍城砦」で最優等学位を受けた。シリアの中部に聳える中世の十字軍の名城「クラック・デ・シバリエ」を訪れた彼が、この理論に確信を抱いたのだろう。
シリア中部を旅した時には、私は中世の十字軍を忍ばせるこの見事な城の全景を遠くから眺め、城内を巡り、城壁から眼下に広がる広大で豊かな緑の農地を展望し、ロレンスを、そして十字軍の昔を偲んだ。
一九一四年、シナイ半島の考古学調査を行った彼は、大戦が始まると陸軍省のカイロにある情報部勤務を経て、アラブの叛乱に乗じてベドウィンを結集することになり、トルコ軍の拠点アカバを攻略した。
アラブ人部族を結集するのは至難であり、五百年以上のあいだ、カリフやスルタンでさへできなかった。ロレンスは、巧みなアラビア語をしかも方言まで使いこなし、純白のアラビアの花婿の衣装を纏い、砂漠の舟と喩えられるラクダを自由に乗りこなし、アラビア人を統率する術を心得ていた。
当時のイギリスはフセイン・マクマホン書簡により、トルコ軍に戦勝した暁には、アラビア人による独立国家を保障すると約束した。そこでフセインはアラブ人軍隊を結集し「アラブの叛乱」に起ち上がった。
ベドウィンの軍隊を指揮し、生死を共にしながらアラブの叛乱と独立を夢見たアラブの英雄ロレンスは、母国イギリスの主張とは別に、アラブの立場に立ったファイサルによるシリア独立国の樹立を願った。
この間イギリスは同盟国フランスとの協力が不可欠であったため、植民地主義国のマキアベリスト政治家達は一九一六年、先のフセイン・マクマホン書簡とは相反したサイクス・ピコ協定を締結し、大戦終了後におけるアラビア半島の利権の分割を取り決めていた。フランスはシリアとレバノンの支配権を、イギリスはパレスチナ、トランスヨルダン、メソポタミアを取得し、地下に眠る巨大な石油資源を取得するつもりだった。
ロレンスは連合国側の相矛盾した密約に悩んが、アラブの民族運動を指揮し、アラブによるダマスカス制圧、いち早いアラブ政権樹立によりアラブによるシリアの制圧権を確立できると信じた。そして一九一八年十月、見事にアラビア軍によるダマスカス入城を果たし、英軍アレンビー将軍が入城する前にアラブ人政府を樹立した。
アラビアを離れイギリスに戻ると、ロレンスは功績による国王直々の殊勲賞の授与を辞退し、新聞による文筆活動でファイサル支援の活動展開した。
イギリスのアラブに対する支援を約束していた彼は、結果的に政治的な駆け引きにだけ利用された。アラブの叛乱を指揮したたためアラビア人を裏切ることになり、この欺瞞と自責の念に苦しんだ。そして、その後は、あれほど愛したこのアラビアの地には、二度と戻らなかった。
アラビアではロレンスのアラブ人操縦二七カ条は貴重な生活の知恵である。
「ユーモアのセンスを決して忘れないこと。さりげない皮肉が最も効果が有る。また一般論よりも、むしろ相手の一身上のことで当てこすりながら機転を利かせて反応することにより、人々に対する影響力を増すことがきる。相手を咎める笑みを浮かべていた方が、乱暴な言葉を使うよりもよほど効果的で効果も長続きする」
私は、アラビアで技術協力の仕事で滞在した時、時々この言葉を思い浮かべたものだった。
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参考資料 T.E.Lawrence
Society: イギリスのオックスフォードにある、アラビアの「ロレンス研究会」のホームページ、会員参加可能。 |
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