世界旅行

朝、私は身支度を整えて、世界旅行に旅立つ。会社を定年退職すると、有り余るほどの時間を自由に活用できる身分になった。待望の"黄金時代 Edad de Oro"を迎えたからこそできる至福の時を過ごすのだ。もっとも可処分所得の限られた身であってみれば贅沢はできないので、一ヵ月に三千円足らずで過ごす貧乏旅行だ。とは言え、私にとっては豪華船クウィーン・エリザベス号での旅行と較べてもひけをとらない、贅沢で心豊かな旅路を楽しむことができる。
私が毎日出かけるのは、多言語の世界をめぐるヴァーチャル(仮想)の旅である。七時、NHKのラジオ講座のドイツ語が始まる。ドイツ・リード(歌曲)の調べに耳を傾け、「ドイツ気ままな旅」にでる。
……メルヘン街道を歩き、ノイシュヴァンシュタイン城を訪れる。ライン河畔のコブレンツの船着場で知り合った気さくな二人の韓国の女子大生は小さなザック一つの身軽な旅だった。一緒にライン川を遡り、岸辺を眺めながらよく冷えた白ワインを飲む。すぐ横では私と同年代のドイツ人のグループが仲良く昔懐かしいロシア民謡を合唱していた。数年前の楽しい記憶がちらりと蘇える。 続いて電波に乗ってハングルの世界、韓国のソウルにやってくる。……インターネットで知り合ったイ・トンハン君とキム・スニョンさんが市内を案内してくれる。南大門周辺では活気があふれ、九十八年の通貨危機を乗りきった韓国経済の逞しさを感じる。この調子だと、これまで兄貴分だった日本を追い越す日がやって来るかもしれない、とイ君が最近の"ニューズウィーク"の雑誌を引用して自慢する。破裂音の多い韓国語はドイツ語の響に似ている。言葉は文章のしくみが日本語にそっくりなのに驚き、日本文化のルーツが見えてくるように思える。
……鹿児島の片田舎に住む十四代目沈寿官さん"陶芸の里"が目に浮かぶ。豊臣秀吉の朝鮮出兵で連行された陶工たちの宗家を受け継いだ朝鮮人の末裔で、カラフルな模様で知られる薩摩焼を世に広めた。
ソウルのハングルの街を歩きながら、気がつくとカンバンを眺め、習い始めたばかりのハングル文字を懸命に読んでいる。漢字支配から脱するためか、十五世紀中旬に世宋大王が独自の表音文字を考案した。クメール文字に似て子音に母音を組み合わせるが、わずか十四の子音語幹で全ての音を表現できる合理的な文字だ。
日本語を連想する言葉も多いので楽しい言葉の旅を楽しむ。

シャンソンが流れるフランス語の世界へ旅を続ける。……カルチエラタンのカフェ、セーヌ川のほとりを歩く。
……独身時代の留学生活が浮かんでくる。モンパルナス駅からさほど遠くない所にあるパスツール研究所。初日に、歓迎の簡単なパーティがあった。ケーキの中にコインを一個入れて、人数分を切って皆に分けた。コインの入ったケーキが当たったアニーが、私のところへ来ると両頬にキスをしてくれた。ふんわりとした胸が触れ、直立したままおもわず赤面する私を眺めて、いたずら好きのパリジャンヌたちがくすくすと笑った。アニーはモーロ人の血を引くスペイン人の移民だろうか、長い黒髪を束ね、褐色みを帯びた肌と澄んだ大きな黒い瞳で、無言で私の目を覗き込むようにして見つめた。黒のパンタロンがよく似合い、難関のラボランチン(実験助手)の試験を通ってきた知的な感じの娘だった。
……フランス中部にあるカテドラルで有名なブルジュ、起伏に富んだ広大な畑の広がる郊外に住む獣医のゴダールさんは兄貴のように良く面倒を見てくれた。奥さんは手作りの羊肉の料理で温かく迎えてくれた。
……フランス北部のルアンには名古屋のアリアンス・フランセーズで知り合ったドミニク・フォッサードさんの故郷だ。六十年代の平和なカンボジアで同じ時期を、一時過ごしたことがある。街の広場は、ジャンヌダルクが火刑にあった所で、今でも黒ずんだ石畳は当時のまま残っている。ドミニクの息子のシリル君がノルマンディの海岸線を車で案内してくれる。モーパッサンの短編小説「ジュール叔父」の背景ル・アーヴルの港町を訪ねる。二十分のフランス語の旅は瞬く間に過ぎ去って行く。

スペイン語の旅は陽気なサンバのリズムで始まる。今月のラジオ講座のテーマは「ラテンアメリカ人物探訪」だ。ノーベル賞作家のガルシア・マルケス、スペインの支配からたちあがった「開放者」シモン・ボリバールを主人公とした小説「迷宮の将軍」で知られる。「聖女ペロン」と呼ばれたエヴァ・ペロンは、アルゼンチンにおける社会変革の激動時代を大衆の熱狂的な支持のもとで夫のペロン大統領を助けて活躍した。ガイドと共に歴史上の人物を探訪する。
……メキシコの避暑地カンクン、国際会議で二週間過ごした十数年前のことを思い出す。習い始めてからどうしても口から出てこないスペイン語の壁があった。毎日ボーイとウェイトレスたちと仲良くなるうちに、いつのまにかスペイン語の壁がなくなっていた。
カフェで憩うと、陽気なキューバのおどけたようなブエナ・ヴィスタスのアフロ・アメリカン音楽が聞こえてくる。ラテンアメリカの旅はことのほか楽しい。

こんどは中国旅行だ。ラジオ講座は「中国人留学生の趙君の日本留学体験記」だ。舞台は日本だが、趙君の目を通して日本文化を体験する。食や入浴などの日常生活に戸惑い、祭や相撲などの風俗習慣に感心する。外国人の目で眺める日本文化は、そのまま外国生活をしているような面白さが伝わってくる。
……上海は改革開放の市場主義経済の成功で沸いている。高層ビルの林に目を見張り、凄まじい人々の生活力を感じる。繁栄から取り残された貧しい農村社会は、四十年前の日本の貧しい世界がそのまま残っている。
……ヴァーチャル旅行はタイムトンネルを潜り抜けると、千八百年前の後漢から武帝までの百余年にわたる劉玄特徳、曹操と関換、張飛大などをめぐる壮大な歴史ドラマ「三国志」の世界を旅する。

一段諾して、十分のラジオ体操をしながら、朝のこわばった体をほぐす。
次ぎのロシア語の旅は、三年前始めた近くの大学の生涯学習講座から始まった。なれないキリル文字を克服するのが最初の関門だった。激しい特訓をなんとか生き延びて、キリル文字独特のアルファベットを習得すると広大なユーラシア大陸が目の前に広がってきた。ロシア、ウクライナ、中央アジアの国々を自由に放浪するのだ。ドイツ語の文法構造と、フランス語の単語を連想すると分かりやすいロシア語は、言葉の響きが流れるように美しい。
……傾倒したドストエフスキーのニヒリスム文学の世界、チャイコフスキーの優しいバレー組曲。ロシア民謡を一緒にハモったミッチー、皆のアイドルでアルトの声がきれいだった。彼女は今もなお当時の若いままの姿で記憶の中に生きている。
……シベリア鉄道の列車はナホトカへ向かいう。広大な白樺の林を眺め、退屈するとチェホフの短編小説を読みながら、現実の生活への帰途に就く。

九時十分、二時間のヴァーチャル世界旅行から戻る。
朝ご飯を食べると、近くの公園を散歩する。何時も思うことは、早く日本経済が好転して株価が上がり、塩漬けになっているトラの子を取り返すことだ。
その時は、リュックを担いでバックパッカーの旅に出よう。ベトナム、カンボジア、タイと、アジア街道を辿り、中国の雲南省からシルクロードを通って中央アジアのサマルカンドで憩う。ダマスカスでは旧友と会い、チュニジア、モロッコからジブラルタル海峡を渡りスペインに入る。マリア・テレサが待っているグラナダにあるわが第二のホームでゆっくりと休憩するのだ。

2002/11/18 Tomingo

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Updated December 5, 2002