二千二年の二月、スペインのセビリアに長期滞在した。家主のルイサは五十半ば過ぎだろうか、しゃがれた声をしてやや褐色を帯びた肌をしている。若い頃はきっと美人だっただろうが、彫りの深い顔には深い皺が目立つ。美しいスタイルを保つために、若い頃から一日一食だけで過ごしてきたというだけあって、中年女性に多いビヤ樽にならずに痩せ型を保っている。裕福な家庭だが、三人の息子は独立し、ご主人は仕事が忙しく月に一度しか帰宅しない。百平米ほどのアパートにいつも下宿人を何人か抱えて、毎日が忙しいようだ。
ルイサの寝室の他にある四つの部屋には下宿人が住み、自動食器洗浄機も備えたダイニングとゆったりしたリビングがある。私の部屋には窓はなく隣の物置から薄明かりが入るが、室内には四十ワット一個分の灯りしかないためいつも薄暗い。シングルのベッドと机、縦長の衣装棚と備え付けの本棚がある。幸いなことに、アコーデオンカーテンの隣に洗面所とシャワー室があった。
机の横には、今日出ていったばかりの、先住者のごみがそのまま残されていた。
シャワーは水圧が低く、お湯は最高に上げても肌の温度程度とぬるい。風邪を引かないように筋肉を絞るようにして身体を流し、急いでタオルで水をふき取る。暗い部屋と冷たいシャワーはスペイン独特の習慣かと思った。
スペイン語学校メステルが紹介してくれたこの下宿は三食付きで、下着の洗濯までしてくれて一ヵ月約五万円程度だから、ホテル住まいの不便と較べたら文句は言えない。同じ屋根の下に住むのはアメリカから来た二人の女子大生と、イギリス人でコンピュータ会社を経営する五十歳くらいのロバートの三人だ。
メステル校は、朝八時から始まる。商店街のアスンシオン通りを五分ほど歩くと、グアダキビール川に架かるサン・テルモ橋にでる。対岸には“黄金の塔"が聳えているのが見える。橋を渡ると“コロンブスの散歩道"に出る。このあたりは、四百年前には新大陸からもたらされた銀などが大量に荷揚げされ、岸辺近くの倉庫を満杯にしていたという。川沿いに面した公園は大理石のテラスがゆったりと広がり、日中はナツメヤシの木が日陰を作る。テラスを川沿い下ると、右手に闘牛場の黄色い建物が見えてくる。ここは、メリメの戯曲でビゼーの歌劇『カルメン』の恋人の闘牛士ドン・ホセが登場する舞台である。
闘牛場の裏側にあるメステル校は、建物の入り口を入った正面の部屋が事務室と校長の部屋を兼ねている。吹き抜け中空の天井からは、明るい陽が射し適度の換気を保っている。ニ・三階は四角に四つの教室ある。午前中の四時間の中級スペイン語の授業は、前半の文法と後半の会話の授業がある。生徒は十人程度だが、二十歳前後のオランダ、ドイツなどのヨーロッパの国から来た若い女性が多い。日本人は、サッカーの好きな二十歳代のユウジ君と、英語教師の仕事を早々と切り上げて憬れのスペインにやってきたサチコさん、それに私の三人だった。会話の授業を担当する金髪のパトリシャは、二十代半ばの女性だが小柄で可愛いい。いつも陽気に冗談を言っては皆を笑わせ、上手に授業をすすめる。サチコさんはサラマンカで二ヵ月勉強してだけあって会話の感度はすこぶる良く、授業ではヨーロッパ人と同じように活発に話す。
授業が終わると、昼飯にはまだ早いので、帰り道で見かけるバールに立ち寄る。愛想の良いカマレロ(ボーイ)が威勢良く迎えてくれる。カウンターに並べられたタパス(つまみ)の中からスペイン特産で美味いハモン(生ハム)とか、タラ、エビ、タラコなどの魚介類の入ったサラダなど手ごろなものを一つ取り、ゆっくりとセルベッザ(ビール)を傾ける。
下宿では三人の仲間と一緒に遅い昼飯を食べる。食事は極端に経費を節約して作られており、何時もパスタか豆とソーセージのポタージュだけのことが多い。食べ盛りの二人の学生とロバートは不満そうに黙々と食べている。私はあらかじめ気に入った前菜をアペリティフを傾けて済ませているので、心地良い酔いも手伝って、貧しい食事でも気にならない。
「どう、美味しいでしょ? 」と側らで家主のルイサが、押しつけがましく返事を促すが、進んで返事をする者はいない。
「ムイ・ビエン(美味しいね)」と私が気を利かせて遅れた相槌を打ち、少し冗談を交えてその場の硬い雰囲気を寛がせる。子供の時から食事の楽しみよりもスタイルを気にしてきたルイサには、豊かな食生活で過ごしてきた下宿人の気持ちは分からないのだろう。しかし、一ヵ月間はここで過ごさなければならないので、なるべく和やかに過ごしたいと思う。
食事中は英語での会話は禁止されている。ルイサのアンダルシア訛りの強いスペイン語は分かりにくいのでスペイン語の苦手なロバートは、込み入った話になる全く分からない。そんな時には。そっと英語に通訳してやる。
食事の後はスペインの習慣に合わせて三十分ほどシエスタ(午睡)をとる。目が醒めると小さなザックにテキストと辞書を入れて散歩に出かける。暗くなる前に、明日の授業である文法の予習をし、宿題を済まさねばならないからだ。グアダキビール川に架かるヘネラリシモ橋を渡ると、珍しい亜熱帯の植物が数多く植えてある広大なマリア・ルイス公園にでかける。長いベンチに座り、勉強を始める。外気はまだ冷たいが、頭が冴えて勉強には良い。
午後七時、メステル校でスペイン文明のクラスがある。公園の反対側にはスペイン広場があり、扇形の赤褐色の建物は独特の魅力がある。観光用の馬車は何時も外国人観光客で賑わっている。授業に間に合うように、街を遠回りしながら学校へ向かう。アルカザールは一千年以上前に、イスラム教徒がスペインを支配した時代に建てたスルタンの大邸宅だった。噴水や池を巡らせた緑豊かな庭園には、四季のとりどりの花が咲く。広場を隔てた向かいには、コロンブスの遺体が安置されているスペイン最大のカテドラルがある。
自由参加の文明講座では参加する生徒はいつも少ないが、サチコさんとは度々一緒になる。歴史、地理、文学、芸術など毎日テーマが変わり、専門的な用語は易しく解説してくれるので、難しい講義も分かりやすく退屈しない。校長のチェマさんは、講義を終わる前になると必ず最初に私に質問をするので、油断は出来ない。たまに頓珍漢な返事をしても、もっともらしく受け答えをしてくれるのはありがたい。そんな時には、スペイン人の鷹揚さが嬉しくなる。
一時間の授業の後は帰り道が同じサチコさんと一緒に、気に入ったバールを見つけてワインを飲みながらスペイン談義に花を咲かせる。
下宿に戻ると、相変わらず部屋の灯りは暗い。洗面所から漏れてくる灯りを頼りに、翌日の会話の時間に発表するチステ(笑い話)の原稿を書く。エコノミ・クラスの楽しいスペインのロング・ステイだから、多少の不便は我慢しなければなるまい。中世イエズス会の修道士は教会の窓明かりを頼りに学んだ。セビリアの牢獄にいたセルバンテスは窓からもれる月明かりを眺めながら『ドンキ・ホーテ』の構想を練り、近代文学の礎を築いたではないか。
……“蛍の光、窓の雪"と思いながらも、末期のゲーテが叫んだ言葉を思い浮かべる。
「もっと灯りをMehr Licht !」
2002.12.3 Tomingo
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