三月、アルハンブラ宮殿で名高いグラナダでスペイン語学校に通い、経費を切り詰めるために学校が紹介してくれた家庭でホームステイをしていた。
家主のマリア・テレサは七十五歳の寡婦で、四十代で夫を無くしてから女手一つで六人の子供を育て上げた。今はレストランでカマレロ(ボーイ)をしている独身の末息子と二人暮しである。三度の食事をきちんと作ってくれたうえに、昼食には自慢のアンダルシアの郷土料理でもてなしてくれた。お陰で、私はスペイン語の勉強に安心して集中できた。
アンダルシア地方では、復活祭前の週にはカトリックの聖週間セマナ・サンタの祭りが盛大に繰り広げられる。セビリアではフラメンコの華やかなパレードもあり、祭りを見るためにスペインはもとより、ヨーロッパ各国から観光客がつめかける。グラナダではこの一週間のうちに各教会が三十件を越えるプロセッション(祭りの行列)を繰り出して、日本の山車祭りに似たパレードを繰り広げる。公園ではラテンアメリカやアフリカの民芸品の屋台が並び、屋外の舞台では楽団がラテン音楽を奏で、人々を楽しませてくれる。木曜日と金曜日は官公庁を始め商店街は休業するが、レストランとバールは客で賑わう。テレビは毎日祭りの様子を報道する。
マリアの長男の娘でマリアの孫のロサ・パウラがこの祭りのパレード列に参列するので、写真を撮ってあげることにした。マリアがロサの着付けを手伝いに行くため、夕方五時半に一緒に家を出た。家のすぐ横を流れるヘニル川を渡りロンダ通に出ると右手に高層の高級住宅街があった。マリアはブラジルに十数年移住していたが、切り上げてグラナダに戻って間もなく夫を亡くした。女手一つでレストランを経営しながら家族の生活を支えた。長男ミゲルが父親と同じ銀行員になったのは十七歳の時だった。四十九歳の今日まで共同組合系の銀行に勤めて、今では支局の理事を務める高給取りだ。九十ヘイベイ程の高給マンションには共同のプールも付いており、高級家具の揃った広い居間でミゲルが迎えてくれた。華奢な体つきだが顎ひげを生やしてゆっくりと物静かに話し、気品のあるカバジェロ(紳士)だ。
ミゲルの家には、ブラジルから帰ってきた妻の兄のアントニオとその息子が居候をしていた。セマナ・サンタを機会にスペインの親戚を頼って帰国して、ブラジルを引き上げて来るための家探している。アントニオはスペイン語を殆ど忘れかけているが、ポルトガル語を交えて、熱心に私に話しかけてきた。
「グラナンダで家を見つけたら、ブラジルの資産を全部売り払って引き上げてくるつもりですよ」とアントニオが言った。「以前には繁盛した家畜の取引の仕事は、最近の不況でさっぱり商売にならなくなったもんでね。経済状況は回復の見込みが立たたないし、犯罪は頻繁に起こり、将来のことを考えるとこれ以上安心して住めないと思いましてね。息子はまだ二十歳で、これからが肝心だから仕事を探すためにグラナダに帰ってくる予定ですよ」
ブラジルには苦労を共にした日系人が多いので、日本人に会うとつい身の上話をしたくなるのだろう。アルゼンチンの経済危機は毎日新聞・テレビで報道されているが、ブラジルへの影響は少ないと、楽観的な様子を伝えているが実際には市民生活は多くの問題を抱えているようだ。しかし、スペインの経済状態は私の見るところではそれほど良くはない。グラナダは観光以外の産業はめぼしいものがなく、アンダルシアの中でも貧しい方で、失業率は実質40パーセントに上ると学校の教師が言っていた。それでもスペインはEUに加盟した後で今年から共通通貨ユーロの流通が始まったため、ヨーロッパの一員としての実感を享受して全国的に歓迎ムードに沸いている。犯罪の発生は日本から見ると決して低くはないが、それでもブラジルほど酷くはないのだろう。なによりも、アントニオにとってはグラナダは幼い頃育った故郷であり、頼りになる親戚が大勢いるから安心だ。
ミゲルは私たちと話しながらも、娘の着付けが終わるのまで落ち着かない。
「ほら、できましたよ!」
一時間ほど経った頃に、おばあちゃんのマリアの元気な声が聞こえた。美しいレース飾りのマンティジャを頭に戴き、黒いドレスのロサが得意そうに居間に現れた。まだ童顔を留めているが、目鼻がくっきりとしスタイルもすばらしいアンダルシア美人だ。二十一歳のロサは来年結婚するため、祭りの花形として参加することは一生の思い出になる。マリアは是非この様子を記念して写真に残したいと思っていた。
セマナ・サンタのプロセッションは七時から始まる。ミゲル家のサティアゴ教会は歩いてニ十分ほどの所にあるが、街は交通が渋滞するので早めに出かける。ミゲルは娘たちを乗せて自家用車で行き、高齢のマリアと二人のブラジル人親子と私は、タクシーを拾ってゆく。市役所の東裏にある教会の横の路地には、五メートル程の通路の両脇にはもう人が詰め掛けて群がって待ち構えていた。
七時十分、待ちわびた神輿を運ぶパレードの先頭が現れ、十字架を担いだナザレロスが見えてきた。紺色の円錐形のポンティネンシア頭巾Pontinenciaをすっぽりと肩まで覆い、目だけが不気味に覗いている。白色のマントは足元まで覆い、腰は頭巾と同じ色の腰紐で括っている。同じ服装のナザレロ二人がその横で蝋燭の入った錫棒をもって伴い、二・三メートルの間隔を置き、長い蝋燭をもった総勢百五十人のナザレロスが続く。
見事な彫刻の施された金色の台の神輿の上には、十字架を担いローマ兵士に追われゴルゴダの丘に向うキリストの彫像が据えられている。御輿は二トン余りもある。垂れた布で覆われた台の下では、四十四人のコスタレロと呼ばれる男たちが神輿を担ぎ、小足でゆっくりと進む。この役は一時間おきに交代するが、男たちはファヒンと呼ばれるコルセット様の腰帯で腰を守るためにしっかりと固定している。この役目に慣れるために何日も前から人通りの少ない夜中に、神輿に似たてた重い荷台を担いで練習して来たのだという。
御輿に進む方向を告げるカパタセスCapatacesが、垂れ幕で先の見えないコスタレロたちに出発や道を曲がる時の合図を台をこつこつと叩いて知らせる。その後ろからは白い衣装を着た二人の子供が、香炉ボタフメルトBotafumertoを振りながら続く。灰色の線香のが立ち昇り、男たちの汗まみれの体臭を消すためだという。小太鼓と大太鼓のタンブール楽隊の男たちが真剣な面持ちで、パレードの進行を告げる。
続いて頭に伝統のマンティジャと黒の喪服姿の娘たちと信仰深い中年の女性の一群が、蝋燭を片手にゆっくりとやってくる。四列に組んだ女性たちは、一メートルほどもある長いろうそくを片手に静々と進む。
舗道で待ち構えていたマリアが、私に笑顔で撮影を促した。アナ・ロサのひときわ目立つ美しさに、人々の視線が集まる。緊張した面持ちでアナが近づいてくると、私は真正面から待ち構え、彼女の青春の晴れ舞台を彩る一瞬をカメラに収めた。
女性軍の行進の後には、煌びやかな衣装の聖母マリア像を載せた神輿がやってきた。柱で支えられた天蓋のパリオPalioの御輿の上のマリア像は金の刺繍で飾られた長いマント台の後ろまで伸びている。プロセッション最大の見物がこのヴィルヘン(処女)マリアであり、三十六人のコスタレロの男たちが担いでいる。真剣な面持ちで待ち構えていた人々は、この時とばかりにいっせいに拍手をおくる。この御輿の前面には白い蝋燭が階段状に並べられており、夕暮れと共に火が点される。その後ろからは今度は金モールの正装姿の吹奏楽団が荘重な曲を奏でながら行進する。
このウエルトHuertoのプロセッションは七時過ぎに教会を出発し、市内の要所のサント・ドミンゴ教会の前を通り、カルメン広場を回りながら市庁舎の前を通る。広場では一週間前から鉄格子のひな壇が準備され、市の貴顕紳士・淑女が陣取って睥睨するように各教会のプロセッションンの到来を迎える。
最後にグラナダの大聖堂に詣でる。ここにはイスラム教徒からスペインの主権を取り戻したフェルナンド王とイサベラ女王の両カトリック王の棺が奉られている。その後でそれぞれの教会へ戻るレコヒーダRecogidaで行事を閉じる。
七時から始まり真夜中の一時まで、わずか数キロの所をゆっくりと六時間をかけて行進する。沿道には群集がびっしりと詰め、熱心な信者は後を追う。蝋燭に火が点されると、子供たちが蝋の塊を手にして、カマレラに近寄り斜めに持った蝋燭から垂れる祝福の蝋を受け止める。
メステル・グラナダ校はグラナダの中心街にあるコルテ・イングレス百貨店のすぐ近くの路地を入った所にある。ホームステイしているマリア・ルイサの家からここまでは徒歩で五分とかからない。三月最終の火曜日、四週間のスペイン語の成績を見る試験が終わると、まっすぐ下宿に帰る。セビリアでは昼食までの時間をバールにより、ビールを傾けて時間をつぶしながら気に入ったタパスを食べ、あらかじめ腹ごしらえをして帰ったものだった。グラナダでは、何時も家主が得意のアンダルシア料理を作り、親戚や友人を呼び寄せて一緒に楽しくすごしていた。
夕方の七時から、自由参加の文明講座がある。今日は、セマナ・サンタの歴史の講義だ。講師のイサベルは、アンダルシアで多く見かけるやや褐色を帯びた肌をした三十前後の小柄な女性だ。一時間の文明講座は、聴講生はいつもあまり多くないが、今日は私一人だけだ。イサベルはこんなことは慣れている様子で、「十人でも一人でも同じことよ」、と言って、まじめに講義をしてくれた。
セマナ・サンタの行事は、キリストの処刑から復活までの一週間を思い起こすため行われる。十五・六世紀のバロック伝統を継ぎ、プロセッションは1922年に正式にローマ・カトリック教皇の承認を得て、アンダルシアのカトリックの行事として毎年行われるようになった。それまでささやかに各教会が所有していたキリストとマリアの像は、次第に立派に飾り立てられるようになり、三月最終の週に聖週セマナ・サンタとして各教会が競い合うように今日の年中行事になった。先日見物したウエルトHuertoのキリスト像は、サンチェス・メンザSanchez
Mesaにより作られ、ヴィルヘンのマリア像は十八世紀のモラ学派Escuela de Moraによって作られた由緒あるものだという。
翌日、セマナ・サンタの実地見学の文明講座があり、先日の歴史担当のイサベルが案内してくれた。メステル校の生徒の中には、この祭日に合せて観光を兼ねてやってくる生徒もいた。この日行われるジプシー・ヒタノGitanoが行うナザレロNazarenoのパレードは、グラナダで一番迫力があるという。外国人学生は夕方七時に学校の前に集まった。ドイツ、イギリス、オランダなどから来た若い生徒が主体で、中でも二十代の女性が多い。日本人は私一人だけだった。サント・ドミンゴ教会では、ちょうど始まるパレードを教会の入口近くで見学した。満ち溢れる群衆の中で、背伸びをしながらヴィルヘンの御輿が通り過ぎるのを見守ると、学生たちはそれぞれの仲間と一緒に散っていった。
講師のイサベルにイギリス人のエリザと私の三人だけが残った。エリザは一週間の休暇を利用して、一人でグラナダへきたという。百七十センチを超える大柄だが静かな女性だ。
イサベルがナザレロのプロセッションが通るサンタ・アナ広場まで案内してくれた。アルハンブラ宮殿の麓にはダロ川が流れ、三人はその脇にあるサンタ・マリア教会の横にある石橋の欄干に腰掛けて待った。この谷川を隔てた反対側の丘陵地帯はアルバイシンのユダヤ人部落がある。先日一人で散策した時には、坂道の狭い路地の横の民家からギターの奏でる音楽が聞こえた。川の上流から小高い丘にかけてジプシーの部落のサクレ・モンテ(聖なる丘)があり、ジプシーたちは山の岩肌をくりぬいた洞窟の家で生活している。観光客目当てのフラメンコを見せる店のカンバンが、道の側らにある洞窟の扉に掲げられていた。犯罪が多いので、日中でもこの辺りの一人歩きは危険だと言う。ナザレロの行列はこの丘にある教会まで辿り、目的地に着くのは真夜中になる。
教会の広場に七・八人のスペイン人の若者たちがたむろして、祭り気分で賑やかに騒いでいた。東洋人がいるのを見つけると、「チノ(中国人)!」と叫んでは皆でげらげら笑い騒ぎが大きくなってきた。私は不愉快な気分になるが、無関心を装った。薄暗い街灯の下でイギリス人のエリザは、不愉快そうな表情を隠さなかった。私たち構わずに話を続けたが、私はさりげなく会話の中に「ハポン(日本)」という言葉を使うようにして話した。
「おい、あいつはチノではなくて、ハポネス(日本人)みたいだぜ!」、と聞き耳を立てていた一人が仲間に言った。
「やばい、ずらかろうぜ!」、と誰かが叫ぶと若者たちはこそこそと散って行った。
グラナダでは繁華街の路上では、黒いアフリカ人と並んで中国人がビニールを敷いて安物の中国製のショールを売っている。苦労しながら財産をなした中国人は中華レストランを開き、スペインに根付いてゆくのだろう。有名な観光の街では必ず中華食堂を見かけるが、安くてボリュームのある定食は、日本人や欧米の観光客には人気がある。だが、最近の中国の経済興隆は世界の耳目を集めて驚異の目で見られているが、ヨーロッパでもピレネー山脈を南へ超えると、アジアはまだまだ遠く未知な所のようだ。
十時を過ぎて、夜露が降り始め一段と寒さを増してきた、薄着をして来たのが悔やまれる。夕食はまだ誰も食べていないが、中年の二人の女性はそれほど空腹でもなさそうだ。パレードの到着を告げる楽隊の音と共に、行列の先頭が見えてきた。イサベルが私たちに説明を続けた。キリストの神輿がやって来ると群衆はいっせいに拍手で迎えた。無神論者だと自らいうエリザは、無表情だが目を凝らして見守っていた。この後は、女性群のカマレラの行列とマリア像の神輿がくる。
「ありがとうイサベル、すっかり堪能したわ」とエリザが言った。
「一緒に、どこかで食事をしませんか」忍耐強く遅くまで付き合ってくれたイサベルに、私は夕食をご馳走しようと誘う。
「残念だけど、婚約者が家で待っているので、食事を作らなければならいのよ」イサベルはやっと義務から開放されてほっとした様子だ。
カテドラルの近くまでくると、イサベルと.別れた。
エリザと私は同じ方向にある下宿へ向かった。彼女は明日の朝早くロンドンに帰る。家に帰ってから荷物をまとめなければならないと、エリザは帰宅を急いでいた。街のあちこちではパレードが繰り広げられていた。私はガードを押しきり、行列を横切り、群集をかき分けながら急ぎ足で歩いた。エリザは遅れないようにと、大またで歩きながら、堰を切ったように英語で話し出した。離婚して子供と二人暮しであることも話した。侘しい中年の女性の生活が思い浮かぶ。私はエリザの話に合うように、ときどき相槌を打った。無愛想に見えたエリザが、次第に少女のように素直な話振りになってくるのが感じられた。そんな話振りから、エリザが可愛いらしく感じられた。家の近くのヘニル川まで来ると、エリザが言った。
「ありがとう、英語が上手ね。あなたの家はこの近くでしょ、もうここからは私一人でも大丈夫よ」彼女の家は橋を渡ってしばらく先のようだ。エリザは初めて嬉しそうに、微かに笑いを浮かべていた。
「では、また機会があったら、会いましょう」家までエスコートするつもりだったが、私は当てのない約束をして別れを告げた。
エリザにとっては、短いスペインの休暇で、僅かなふれあいの一時だったのではないかと私は思った。
2002/3/31 Tomingo
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