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三月最後の日曜日、土曜日と続けて快晴となり今年初めての待望の鈴鹿登山である。今年は暖冬のため、例年だったらまだ雪が残っている鈴鹿山脈は、近鉄湯の山線の車窓から眺めると山肌が一面薄く青ずんで見え、残雪はなさそうだ。それでも、春一番の登山となると慎重になり、先ずは無難な国見岳・御在所岳辺りに決めた。 湯の山駅で先に下車した七、八人の登山姿の一行が、待っていた車とタクシーに手際よく別れて去った後、私を含めた三人の中年の登山者がバス停で時間表を眺めた。今月で時刻表が変り、八時二十五分の列車の到着を待たずにバスが二分前に出た後で、次の便までニ十分ある。登山客がまだ少ないこの時期は臨時便もでない。三人は、気楽に声を掛け合って、これを当て込んだように待機しているタクシーに乗り合わせた。 今までは十五年ほど掛けて百回ほど鈴鹿に登ったという登山好きの女性は登りの登山者の少ない一の谷新道を行き、毎月一度は御在所に来ているという男性は中道を選び、私は裏道から国見岳に向う道を行くため、三人はバス停で別れた。川沿いの温泉宿の間を通り、御在所岳登山の裏道へ入ると、急な登りの坂道になる。例年より気温が九度も高いので着ていたウインドブレーカーも要らないようだ。上がり口にある茶店の前のテラスで身支度を整え、ついでに私のトレードマークの水色の地に茶色の唐草模様の入ったバンダナを額に巻く。四人の家族連れが追い越して行く。 この茶店のすぐ上には蒼滝へ下る道があるが、今回は素通りにしてそのまま進む。この滝の上流の沢で賑に水の流れる音が轟き、上から眺める渓流の水の淀みは、澄んだコバルトを濃く溶かしている。 谷を跨いで所々に金網状の橋が架かり、先を行く四人連れの母親が足元に気をつけながら手すりにしがみついて慎重に渡っている。日向小屋を通り過ぎると、本格的な登山道になる。沢を渡ると湧き水の飲み場で、子供連れのがっちりした体格の老人と孫が水を飲んでいる。何時もここでは水を飲むことにしているので、順番を待ち、この冷たくて無臭の懐かしい味を三口ほど飲み込む。 冬の間の残雪が消えたあと、秋に落ちた葉がつやのある褐色を保ったままに、まだ登山者の足で踏みつけられて粉状になることもなく、小道を埋め尽くしている。その中で所々、どんぐりの実が数個かたまって落ちている。沢は一昨日降った雨のため流水が豊かな様子が伺えるが、山道は昨日以来のの晴天で登山に都合よくすっかり乾いている。木々はまだ青葉を着けるには早いので、透けて見える木々の隙間をからからに見渡るが、それでも木の梢の先には黄色い新芽が色づき始めている。 四月並みの絶好の登山日和だと言うのに、登山客は意外に少ない。藤内小屋に着くと初老の二人の登山者が木のベンチでぼんやりとして休憩中だ。春の日差しの下で小屋の前の一本桜が蕾を膨らませているが、開花にはまだ間があるようだ。庭の池では湧き水がひとり音を立てて賑やかに流れている横のベンチで暫く横になり休憩する。板のごつごつした感触を背中に受けて背筋を一杯伸ばすと、身体全体が軽くなるように感じられる。 藤内小屋のすぐ上の道を右折すると、国見岳に向う沢に出る。登り道は大小さまざまな岩の間を縫って辿っており、この春に付けたと思われる真新しい真っ赤なペンキが所々の岩の上にはっきりした目印を示して登山者を案内してくれる。初心者の多いこのコースでは、時々沢を交差する山道も間違うことなく辿れて有り難い。やがて祠のある一の谷の岳不動堂に着く。左前方には布引状の一条の滝が落下している。 急な斜面に取り付けてあるナイロンザイルを伝って急峻を上り切ると、やがて稜線まじかのがれ場の登りになる。遮るように前に立ちはだかる人丈三倍ほどの大岩を横に通り過ぎると、御在所岳裏道と国見だけへの分岐点に登りつく。眼下に今登ってきた渓谷のV字型の窪みと両側の山並みの広がりを見下ろすと、頂上が近いことを実感する。 やがて眼前にいつ見ても驚嘆する巨大な天狗岩と揺ぎ岩の奇岩が何百年の風雨で露出しているのに行き当たる。岩の上におそるおそるよじ登ると、今まで登ってきた道の左手で隠れて見えなかったロッククライミングの名所の藤内壁の荒くれた岩肌を見降ろす。右手上では御在所岳頂上の白亜の無線中継所、山上の見渡しの良いスキー場の斜面の人工芝の緑の広がり、ケーブルカー駅舎の緑色の斜面がはっきりと見渡せる。天狗岩の横を通りぬけ、国見岳頂上に到着する。国見岳頂上を写真に撮り、眼下に広がる霞んだ四日市の市街を俯瞰しながら、昼食にする。 賑やかな五人のパーティーが朝明渓谷方面から到着し、頂上を極めた喜びで満足そうに話し合っている。八時頃朝明キャンプ場を出発し、頂上に11時半に到着したが、中年の女性達は途中の急な上りと笹の薮漕きにうんざりしている様子だ。このあと国見峠から愛知川を下り、根の平峠から朝明渓谷に戻ると言う。楽しそうな渓谷コースだが、まだ寒いこの時期、峠への川の入り口は分かり安だろうかと心配だ。ベテランの案内は何度も来たこのコースはお手の物の様子だ。 国見岳―朝明渓谷への道はまだ通ったことがない。行きなれた御在所岳は三十分ほどで登れるが、未知のコースを通りたいという欲望が沸いてくる。問題は、歩くと一時間半ほどの朝明渓谷から菰野駅までの間を、このオフシーズンのこの時期にバスの便があるかどうかだ。車で到着したパーティは状況が分らないと言うので、岩の上で休んでいる三十半端の精悍な感じの男に尋ねた。 「大丈夫です、バスはちゃんとあります」 自家用車で最近行ったから知っていると、自信に満ちた顔を向けて言った。 …教師だろうか、と思った。 休憩を終えると小さな冒険に勇んで早速、根の平峠へ向けて下った。急な降下と笹の薮道も下りは二十分ほどで、それほど気にならない。一時間足らずで根の平峠の標識に到達。ここを右手に折れ朝明渓谷の源流に出る。夏には盛大に賑あう朝明キャンプ場には人影は疎らで、立ち並ぶ民宿が寂れた虚ろな佇まいをみせていた。広い駐車場に出ると、観光バスが一台と二十台ほどのバイクが赤、青、銀と派手な色彩を輝かせて停まっていた。 バス停に張り紙があった。「四月から運行を始めますのでご利用ください」とある。三月下旬の今日はバスの便はないのか、バス停の前にあるヒュッテの主人を訪ねて確認した。この時期バスはない。もう歩くしかない。 午後二時半、まだ時間は十分ある。…さて歩くか、と心に決めて歩き始めた。渓谷の山道は広い舗装が完備され、車での行楽にはうってつけだ。ここは夏の盛りにはこの車道まで駐車の車で埋め尽くすくらい人気がある。渓谷沿いの車道を行き過ぎれば、田園沿いの真っ直ぐな道が続き、駅までの道もわかりやすい。 …それにしても舗装道の歩きは、足に響き、無様な登山姿が野暮ったい。 ふと後ろを振り向くと車が走ってきた。何気なく手が挙がり、にっこりと笑っていた。RVの真新しい車がスッと停まり窓が開くと、ハンサムな青年が顔を出した。 「下まで乗せていってもらえませんか」、とにこやかな青年の表情につられて尋ねた。 気の良い青年は扉を開けて、後ろの座席に坐っている若い奥さんに優しそうに頼んでくれた。、 「この人に席を詰めてあげてよ」 御主人の隣の助手席で眠っていた一才に満たない坊やが目を覚まし、ベルトで固定された座席で身体を伸ばす様にして、 「バブ、バブ、ブー」と歓迎の挨拶をした。 車は瞬く間に、渓谷を過ぎ、田園風景を後にして駅の近くの県道に到った。 「この辺りは菰野駅の近くです。どうも有り難う」 ホームページのアドレスの入った名刺を手渡すと、若い家族に別れを告げて、駅へ歩いた。 まだ早い、早春の午後。所々満開の桜が美き乱れていた。 1998/3 |
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